1.村上 明(京都大学、現兵庫県立大学)『教える側』2003年09月01日

 早いもので、研究に関して「指導される側」から「する側」へ移行してから十年近くが経ちますが、最近、ようやく「する側」の立場やスキルについて深く考えるようになりました(遅すぎる…)。

 指導している学生から「こんな実験結果が出ました」と報告を受けた場合、どんな対応をすれば良いでしょうか。指導者側のエゴとしては、学生に「こんな結 果 が出ました。このデータには、こういう意味がありますから、次にこんな実験計画を考えていますが、それについてどう思いますか?」とまで言い放って欲しい のですが、実際にはそんな楽チンなことはめったにありません。一方、「こんな結果が出た」とだけ教官に伝達し、次の指示を待つだけの受動的な学生の態度も 気になります。

 さて、どんな対応をしましょうか?

  具体的に、「ああ、これは面白いデータだ、これはこんなことを意味しているんじゃないかな。次にこういう実験をやって、結果がこうなったらあれもやってお こう」といった風に指令をテキパキ出すのか、それとも「で、その結 果についてどんな意味があると思う?次に何をしたらいいと思う?」というように本人にじっくり考える時間を与えるためにしばらく放置しておくのか。。。

  どのような対応が正解なのかは、相手の資質や能力、さらに経験と言った要素にかなり左右されると思いますが、教育的効果を考えた場合、後者が望ましいこと は言うまでもないでしょう。しかし、日頃の精神的・時間的余裕のなさ、さらには一研究者として早く結果が欲しいという気持ちが思わず前者のような態度だけ を呼んでしまうことも事実かも知れません。私の場合、ときおり軽く後者をちらつかせながらも、結局、本人から十分なレスポンスを引き出せないままに前者を 披露(後述するように、このときの指令は必ずしも正しくない)、というのが現状でしょうか。こうした場合、学生にとっての「研究という創造的な営み」が 「単なる作業」になってしまうことが危惧されます。

  自分でアイディア を出し、背景を精査し、具体的な計画を立て、実行し、結果を考察し、さらなる展開を考えるという、研究を行う上での一連の作業に関して、徐々にでも良いか ら自分自身で進められるように舵取りすることが、教育に関する自分の重要課題だと捉えています。社会へ出た後で大学時代と同じ内容の仕事をすることは希で すが、上で述べた能力は、将来、たとえ研究に関係しない職に就いたとしても必ず役に立つはずですから。

  「教える側」への移行に関して、 他にも問題はあります。根本的なところですが、学生に適切な指導をするだけの能力や経験が果たして自分にはあるのかという点です。助手→助教授→教授と昇 進して行くに従って、全体的な知識や方向性を決定する上で有用な情報量のストックは増えますが、実験操作などの具体的な経験値は目減りして行き、さらに加 齢に伴い記憶力や柔軟な思考能力は減衰して行くのが一般的です。それなりにベテランに固有の特長が出る、ということもあるでしょうが。

  自分自身としては年を取っても、なるべく長い間、デスクでなくベンチに向かっていたいと願っているのですが*、これは何もエエカッコしているのではなく、 だんだん現場に出る機会が少なくなるに従って、学生にピンボケな指示を出していると自覚する経験が多々あるからです。特に大学院生との議論では、実際に自 分の意見より院生の意見の方が正しい、あるいは優れていることもありますので、そんなときは、【どっちが先生なんだろう。。。】と本当に冷や汗がしたたり 落ちます。日頃の学生との対話を通して、「ああ、(結果的に)ウソ言ってしもた」、「妙案が浮かばない!」、などなど、毎日のように自己反省機会が発生し ているのが厳しい現実です。こうしたミスリードの一部は「現場とのズレ」から来るものだと痛感するわけです。

 「教える側」になって十年、もしかしたら「教えられること」の方が多くなってしまっているのかも知れません。

 

  *余談ですが、私が近畿大学生物理工学部に着任した平成6年頃、土井悦四郎先生(京都大学名誉教授、故人)が、大きな声を出しながら楽しそうに自分の手で 実験されていた様子が非常に衝撃的で、「自分が年をとってもこうありたい」と感じたことを昨日のことのように覚えています。

 

2.室田佳恵子(徳島大学、現近畿大学)『アメリカ留学あれこれ』2003年09月18日

  昨年春のFSF幹事会より当講座の寺尾純二教授からFSF幹事を名目上引き継いだものの、夏の研究会に参加してすぐ、アメリカへ研究留学したのがつい最近 のことのようです。あっと言う間に1年間が過ぎてしまい、現在は「一時」帰国しています(寺尾教授のご厚意により、あと1年留学させていただきます)。今 回文部科学省在外研究員という(経済的に)恵まれた身分で留学しました。留学先は、Rutgers University(実はニュージャージー州立大学)のCook College(農学部)です。最近ではISI社の1997-2001年の統計でPlant & Animal Sciencesの分野におけるNo.2の大学と発表されました(ちなみに1位はハーバード大学)。私はDepartment of Nutritional SciencesのProfessor Judith Storchの研究室で脂質の吸収代謝について研究しています。

 さて、海外生活をしていますと、人それぞれでしょうけれどもさまざまなことが起こります。私の場合、多分殆どの方は経験したことのないことを最近2ヶ月で体験しましたので、それらについて今回は書かせていただくことにします。

1. Open a container of alcohol

  アメリカはご存じの通り、州ごとに法律が運用されています。それでも基本的なことはやはり共通していて飲酒に関する法律、特に未成年の飲酒と飲酒運転に関 しては細かく規定されています(私自身、何度かレストランでビールを注文して年を聞かれました)。しかし、それ以外の場面でアルコールに関して注意を払う ことは殆どありませんでした。

 7月のある日、NY州Bronx(ちょっと物騒な街として有名)の海岸でクラシックの野外コンサート(無料)に日本人の友人家族を誘って出掛けました。 コンサートは夕方でしたので、観客はみな食べ物や飲み物を持って来ていました。我々も座ってビールを飲み始めたのですが、開演後30分も経たない頃、突如 NYPDの警官が背後にやって来て、友人と私に交番まで来いというのです。どうやらビールを飲んでいたせいらしいことはその場でわかりましたが、周りの人 たちも結構みんないろいろ飲んでいまして、最初はIDの確認だけかと思ったくらいでした。ところが、実際の罪状は、「Open Container of Alcohol」、つまりビールのカンを持っていたことが原因でした。その場は裁判所への召喚状(いわゆるチケット)を渡されておしまいです。後からレス トランなど許可された場所以外の屋外で飲酒してはいけない、という法律がNY, NJ州にはあることがわかったのですが、その海岸ではビールを売っている店もあり、持ち込みで飲んでいる人も大勢いたのです。但し、チケットを切られな かった人は全員、アルコール飲料を何かカップに移して飲んでいたのでした。

  召喚に関しては、微罪なので事前に裁判所に問い合わせて出頭せずに罰金を為替で送って終わり、ということも出来たようなのですが、アメリカの Criminal Courtに出頭する(しかも駐車違反ではない)せっかくの機会でしたので、出頭することにしました。結局、約1ヶ月後の召還当日はわざわざNJから Bronxへ早朝出掛けた上、延べ7時間待たされ、ほんの30秒ほど法廷に立たされて罪状認否を問われ、無罪を主張すればまた時間を取られることがわかっ ていたので、$25の罰金を払うことになりました(しかも、結局窓口は先に閉まっていて為替を後から送りました)。

2. Burglary

  今回の帰国の4日前、実験をしていたときのことです。4時半頃、同じ居室を使っているテクニシャンが帰宅し、うちのラボ(およびその階)には私一人が残り ました。但し、緯度の高いNJは夕方7時でもまだ明るいくらいの季節です。私は居室から離れた実験室にいましたが、5時40分過ぎ、廊下に出てふと居室の 方を見ると、普段は開いたままの非常扉が廊下を遮断しているのです。そこが閉まると居室に行けなくなるため様子を見に行くと、非常扉の向こうには人の気配 もなく、私の居室とその隣室(中でつながっている)のみ電気がついていました。その時、隣室のドアについていたガラスの覗き窓(しかも金属線の格子付)が 割れていることに気付きました。ドア自体は鍵がかかっていました。そこで突如、何者かがガラスを破って手を差し入れ中から鍵を開けたらしいことに思い当た り、慌てて室内に入って中を見回しました。すると、私のハンドバッグとノートパソコンとパソコン用のバッグがなくなっていました(コーヒーのコップなどは そのままでした)。もしや机の脇に置いたのかと思いしばらくうろうろして、やっと盗まれた!と納得。慌てて大学警察の番号を探して電話し、各方面への連絡 をしました。問題は、ビザが切れる時期であったため各種手続きが続いていたせいで、パスポートを含む一切をハンドバッグに入れて持ち歩いていたことでし た。帰国間近だったので、家に保管するなど考えもしていなかったのです。盗難にあった当初は、全て手続きは時間を取られると思い、アメリカでのパスポート 再発行を申請し帰国を遅らせるつもりだったのですが、文科省の在研であったことが「災い」し、大学の事務から緊急帰国のために領事館から発行される「帰国 のための渡航書」を発行して予定通り帰国してほしいと言われてしまったのでした。幸いにも免許の再発行等が間に合いましたので、帰国の前日NY領事館へ 行って渡航書を発行してもらい、予定通り帰国したのでした。  帰ってからも、パスポートの発行に関して一時帰国者の「居所申請」を行った際、これにもまた本当は有効なビザなどアメリカへの再入国が証明されている書 類が必要なところを、DS-2019で何とか許してもらって外務大臣宛の理由書を作成し、ようやく手続きをしてもらうことが出来ました(ビザを申請するた めに戻って来ている以上、アメリカには現状では入国すら出来ません)。現在は、代理店を介してビザの申請中です。ご存じの通り、現在はビザを貰うのに1ヶ 月ほどかかるといわれており、かなりの足留めを食って、徳島大学で「いつまでいるんですか?」と聞かれる毎日を送っています。

  盗難事件に関して、アメリカの友人たちから言われたことで印象的だったことがあります。たいていの第一声は「犯人と鉢合わせなくて良かった」でした。財布 をカバンから抜かれるなどある意味日常茶飯事なので、ガラス窓を破ってまで盗みを働くような輩についてはまず恐いと思うのがアメリカ社会なのだと実感しま した。また日本に滞在したことのあるアメリカ人2人から、「アメリカがこんな国で申し訳ない」という趣旨のことを言われました。彼等は、安全な日本を知っ ているがゆえに、自国の状況を残念に思っているのでした。私は1年ぶりに帰国してみて、日本が最近如何に安全でなくなっているかというニュースをたくさん 見ながらいろいろと考えさせられています。

 

3.原 征彦(三井農林(株))『茶カテキンのがん予防効果』2003年10月13日  

  茶カテキンにはヒトのがん化学予防に有効である可能性を示唆する知見は多く、いくつかの総説に纏められている。しかし投与と結果の相関は得られても、経口 摂取後のカテキンの吸収、分布、代謝、排泄の様態や、カテキンを皮膚や粘膜に塗布した後の働きなど不明な点は多い。それらの研究が進められる一方、茶カテ キンを用いたヒト介入試験が関心事となり、さまざまな取り組みが行われるようになってきた。  この際、臨床試験に用いられる茶カテキンが問題である。ある恣意的な茶カテキンサンプルがヒト集団においてがん予防効果が検証された、としてもそれは単 に研究上の一事績であり、極めて貴重なデータではあるが、それをもってその茶カテキンを「がん予防剤」として世に流通させることはできない。行政的な認知 を求めようとすれば、有効成分の組成、不純物、安全性、薬理動態などの詳細や製造保証、品質保証などの諸点が厳しく問われる。従来数多ある天然素材のがん 予防ないし治癒効果が謂われながら正式な認知を得られないのは上の事情にもよると考えられる。

  これら問題意識のもと米国NCI(国立がん研究所)がん予防部と小生らは過去6年来、茶カテキンを用いたがん予防試験に普遍性を与えるための戦略を練り、 それに沿って仕事を進めてきた。第1に、有効成分をEGCgと措定し、「EGCg」純品とEGCgを主成分とする「ポリフェノン」なる茶カテキン高濃度粉 末の両者を同時に試験対象とすることである。通常の薬剤は上述の諸点に鑑み100%純物質であることが要請される。しかしながらEGCg純品は茶抽出物と いうより化学物質である。茶抽出物である「ポリフェノン」に妙味がある。かくして「EGCg」と「ポリフェノン」両者を並行して試験を進め、両者の働きが ほぼ同等であることを確認し、ある段階から「ポリフェノン」単独に切り替える、という戦略をとった。

  「ポリフェノン」はEGCgを約60%、その他カテキンを約30%含む天然茶抽出物である。一方、「ポリフェノン」のCMC(Chemistry, Manufacture, Control)もほぼ完璧なものとした。すなわち、「ポリフェノン」の原料段階から最終製品に至るまで関与するあらゆる材料、資材、製造プロセス、製造 装置、環境、測定法と機器、最終製品の各成分プロフィール等々が常に正しく一定の指示範囲内に入るように文書的、工程的に確保した。第2に「ポリフェノ ン」を所定の法的基準に則って毒性、安全性試験、代謝試験等に付し安全性を確認した(前臨床試験および臨床第1相試験)。以上の態勢を整えた上、臨床第2 相試験のプロトコルをFDA(米国厚生省食品医薬品局)宛提出し、受理された後、漸く効果試験に進める。現在われわれは米国人被験者の各種がん前駆症状を 対象とし「ポリフェノン」投与による臨床第2相試験に入っている。

 よい結果が得られるまで、それなりの時間と困難も予想されるが、NCI主導プロジェクトに茶カテキンを本邦ブランド「ポリフェノン」として供与する、という大きな意義をもっていることをご認識頂ければさいわいです。

 

4.下位香代子 (静岡県立大学)『あるがままに・・・』2003年11月17日

 江戸時代後期、越後の山間の庵で清貧に生きた良寛は、手まりをして日がな一日子供と遊ぶ慈悲深いお坊さんというイメージがあるが、「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉」という辞世、「風は清し月はさやけしいざ共に 踊り明かさむ老いの名残りに」、「散る桜残る桜も散る桜」などこの国の自然を愛して詠んだ歌を数多く遺している。辞世では、自分は何も形見に遺すものはないが、自分が死んでも自然は美しく、これが自分の形見だと言っている。彼の生き方の根本に、あるがままの自然の心境に身を任せ、あるがままを受け入れる寛容さがあるという。

 ところで、私たちの体には、「免疫」というシステムがあり、体の中に異物が侵入してくると、それを拒絶して排除する。しかし、免疫には、たとえば母親の胎内で育つ子供の生命を母体が拒絶しないような、異物と共存する「寛容=トレランス」というはたらきもある。五木寛之氏は著書「大河の一滴」の中で、この免疫寛容をとりあげて、自己と非自己が、お互いに拒絶せずに何とか折り合って生きていこうとするコンセプトが今大切だと述べている。冷戦構造崩壊後の世界では、民族間や宗教の対立によりあちこちで紛争が耐えない。画一化した生活様式、教育の中で順応できない人間は拒絶される傾向にある。そんな時代に対して五木氏は、「様々な多様性を認め、生も死も、喜びも悲しみも、みんな抱え込んで生ずる混沌を認め、もう少しいいかげんに行儀悪くなって、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力をいきいきと復活させ、不安と無気力のただよう時代の空気にエネルギーをあたえることになるのではないか。」と問いかけている。

 良寛と五木氏、ふたりの精神の中に「寛容」というキーワードがある。日本人は無宗教で哲学がないように言われているが、古来、日本の美しい自然の中ではぐくまれてきた日本人の精神の基本にこの「寛容」が底力となっているように思う。これからの時代、「寛容」は我々が大切にしてゆくべきものだと世界に向かって日本人だからこそ声をあげて言っていくべきではないかと、そして、日本の美しい自然を感じる心を失ってはならないとつくづく思う。仕事に追われる毎日であるが、ゆっくりと良寛のふるさとを訪ねてみたいと思う。秋の夜長の一考である。

 

5.中村宜督  (名古屋大学、現岡山大学)『「名古屋の食べ物研究」はじめました」』2003年12月09日

 初夏に大衆食堂でよく目にする「冷し中華はじめました」みたいな題であるが、それぐらいの気持ちで、この拙い「独断と偏見雑文」を読み流して頂ければ幸甚である。本文中には参考文献がない情報もあるので、真偽を確めたい方は是非名古屋を訪れて頂いて、自分の目で、自分の舌で確認して頂きたい。

 京都で生まれ育った小生が名古屋に赴任して、今年の夏で丸3年が経った。まだまだ名古屋初心者の域を出ないので、「そんな人に名古屋のことなんて、わからんがね」といわれるかもしれないが、今回は敢えて、名古屋独特の「食べ物」を題材に取り上げてみたい。さて、名古屋という街は人口220万人を誇る国内第3の大都市であるが、文化・情報の画一化が進む現代において、この地ほど、食文化が独自性を失わず、益々他の地域と一線を画しているところはない。この独特な食文化は、広大肥沃な濃尾平野と木曽三川、豊富な魚介類を育む伊勢湾、三河湾という恵まれた地理的条件と、古くはロボットの原点といわれる「からくり山車」や自動織機、現代では自動車といったモノ作り(製造業)中心の産業構造に支えられてきた。この二つに大きく影響を受けて形成されてきた、合理主義的名古屋人気質もまた、食文化の発展に寄与してきたと考えられるが、ほんと名古屋の人はご当地グルメが好きである。実は、名古屋ローカルのテレビ局では、他の地域と比較してグルメ番組が有意に多いのだ(ちなみに某チャンネル、日曜午後10時半からの1時間枠は、大阪ならグルメ情報はほんの1コーナー(数分)であるのに対し、名古屋では1時間まるごとグルメ番組であり、さらに名古屋で最も人気のある番組の一つなのである)。

 では、現代名古屋の名物食べ物には、どんなものがあるのだろうか、以下に列挙してみた。ひつまぶし、手羽先、きしめん。八丁味噌絡みでは味噌煮込みうどん、赤だし、どて煮、味噌カツ。さらには天むす、あんかけスパに小倉トースト、台湾ラーメン・・・と、挙げはじめるときりがない。これら名物の摂食頻度と名古屋滞在時間に、正の相関が成り立つことはいうまでもない。発祥は名古屋でないものもあるが、なんともアクの強いものばかりである。実際、名古屋では濃い味付けが好まれるといわれ、寿司飯の糖度が東京や大阪よりも高いというデータが存在することも、この「濃い口好み」を示唆している。小生が、以前よりも濃い味付けを好むようになったのではないかと、名古屋歴数カ月の嫁に指摘されている(未発表)が、事実、慣れというものは怖いもので、既に、とある味噌煮込みうどん屋の常連となっている。上記の名古屋名物、どれをとっても、美味しいだけでなく、「合理的」と「創意工夫」を好む名古屋文化を知る上で、極めて重要なアイテムであるので、一度は試して頂きたい。

 作家の花房孝典氏は、「人々の食生活とは、その立脚する風土によって左右されるものであるので、上記の名古屋名物は所詮、日本人が戦後50年で身に付けた雑食性と、名古屋人気質の産物であり、名古屋の風土自体が生み出したものではない」と指摘する(名古屋十話(とわ)、中日新聞社編)。同氏は、名古屋でなければ食べられないもの、手に入らないものこそが「名古屋の食」であると付け加える。すなわち、現在は流通機構の発達により、地球上のほとんどの国の食べ物を、旬に関係なく手に入れて味わうことができる世の中なのである。前述した様に、江戸時代の名古屋では、山、海、川、野のありとあらゆる食材が揃ったというが、その時代から引き続いて「名古屋の食べ物」として食されてきた、この地以外では手に入らないものは、前述の「現代名古屋名物」の枠の外にある。このわた、鮒味噌、鯔雑炊、切り寿司、串浅利、白醤油、かりもりの漬け物、などなど。これからの名古屋の生活でどれだけお目にかかれるかわからないし、最近では名古屋でもなかなか手に入らないものも多いと聞くが、一度は食してみたい。この手の話は名古屋に限った話ではない。今急に、嵯峨野のお豆腐と壬生菜のお漬け物が食べたくなった。

 ところで、「名古屋パラドックス」という言葉を聞いたことがある方はいらっしゃるだろうか。もしあれば、それは小生の思うところと全く別物である。名古屋は味付けも濃く、おそらく食塩の摂取量も他の地域と比べて多いが、八丁味噌もよく食べているので、功罪が相殺され、この地での生活習慣病の発症は他の地域とかわらない、というのが「名古屋パラドックス説」である。しかし、国民健康調査のデータによると、名古屋(愛知県)に住む人が、他の地域と比べて特に、味噌、食塩を多く消費しているということはないようだ(故にこの名古屋パラドックス説は小生の空想に過ぎない)。例えば、動物実験では、味噌は乳癌や大腸癌に効いたとか(同じ系では食塩も抑えるようだ)、疫学では、ピロリの感染は味噌汁を飲むと増えるらしい(原因は食塩と考えられている、漬け物も同傾向だったから)とか、興味深い学術的データが多く存在する。現在、詳細かつ大規模な食習慣に関する疫学研究が進行中なので、「名古屋パラドックス」が現実のものとなる日を期待している。徳川家康が八丁味噌を食べていたから、74歳まで生きられた(でも死因は・・・)とも、この地では言い伝えられていることを付け加えて、筆を置くことにする。

 

6.越阪部奈緒美(明治製菓(株)、現芝浦工業大学)『嗚呼!! マーケティング』2004年01月09日

 最近、マーケティングに駆り出され研究所に居る時間が極端に減っている。この一ヶ月の間に、札幌・仙台・名古屋・大阪・広島・福岡でのセミナー開催・販売促進支援と、ほぼ一日おきに留守にしているからだ。こう書くと「まるで全国うまいものめぐりでうらやましいですね」との感想もあろうが、私のお仕事は講師の先生のアテンド、要するに一日マネージャ—、先生の都合に右往左往というところなのであまり美味しくない。とは言ってもこれまでの十数年ほとんど研究所で試験管を振っていた—ちょっと古い?—ので、このような仕事もそこそこ楽しんではいる。なんと言ってもこのセミナーは「電通」が仕切っているのであるから。「電通」・・・何というハイソな響きだろう。徹底的にミーハーな私は基本的に横文字職業に弱い。デザイナー・コピーライターという方たちとたまにお会いするとその肩書きだけで恐れ入ってしまう。そんな私の個人ランキングの中でも、「電通」は特別である。なんと言っても合コンしたい会社ナンバーワンであるし、セレブのご子息率が非常に高いと聞いている。新社屋はカレッタ汐留上層の巨大ビルだし、イケメンの山テンコ(この言葉はどうも所沢の方言らしい・・・「テンコもり」のことです)に違いない。という期待を胸一杯に(子供が二人もいるのに今更何を期待するのかという意見もおありでしょうが)、念入りに化粧し、服装も完璧に—いつものようにチャラチャラした服装ではなく目一杯キャリアウーマン風に—打合せに臨んだのである。まず驚いたのはその数の多さ、弊社側数人に対して、電通側は十数人もみえたのである。それからお決まりの名刺交換(「電通」の名刺は50色位あって、その中から其々選択するとのことです・・・なんてお金がかかっているのでしょう)、そして名刺の肩書きにはプランナー・ディレクター・カウンセラー、この辺までは良いとして、シニアアカウントエグゼクティブ・・・完敗です・・・。そうして何回かの打合せをし、本番のセミナーを実施し、というプロセスの中で分かったことは、「電通」の方も所詮はサラリーマン、普通のヒトだということであった。 特にチャラくもなく、イケメンばかりというわけでもなく意外に普通。勿論私がお会いしたのは一部の方なのでスペキュレーションに過ぎないが。それにしても、「電通」K氏並びにI氏、私は最後までシニアアカウントエグゼクティブって何だかわかりませんでした。電話するのは一苦労でしたが。

 このように、私が地方でヘラヘラしている間、研究所では「親は無くても子は育つ」状態であったのだが、それでも私のチームの方たちは本当に優秀で確実に実験結果を出してくれている。決して口には出さないが、皆様心から感謝しております。何故ならあなた方のお陰でこの春も私は学会に行けるのだから・・・。

 

7.上原万里子 (東京農業大学)『「北の純粋寡黙」に関する一考察?』2004年02月18日

 もともと夏生まれなので暑さに強く、静岡育ちなので寒さにめっぽう弱い。南の五穀豊穣が好きなはずだった・・・が、縁あって極寒の地、フィンランドに一年半ほど暮らすことになり、2回の冬を経験した。今年の8月、第22回国際ポリフェノール学会がフィンランドの首都、ヘルシンキで開催される。FSFの会員の中にも参加される方々がいるでしょうから、こちらも紹介することに致しましょう。

 1997年の8月31日の午後、私は、ヘルシンキのヴァンター空港にいた。もう8月末なので寒いはずだった。しかし、その年のヘルシンキの夏は世紀の夏と言われるくらい明るく暑い夏だったらしい。なので、その日、はい?これがフィンランド?と思うくらいに暑かったことを覚えている。飛行機は何故か1時間前に着いて迎えの教授を慌てさせた。そこで待っているようにという電話が、フィンランド航空のデスクに入った。東京の家を出てから、成田空港、ヘルシンキまで乗り換えもよく、多分追い風に乗って最短で着いたので、これはこの国に歓迎されているのかもと都合よく考えたりした。日本人にとって、北欧三国は普通ごちゃまぜである。特にスウェーデンとフィンランドはよく間違えられ、私はスウェーデンに留学したことになっているかもしれない。フィンランドはロシアの隣にあり昔ロシアに支配されていたので、右手をロシアにとられた女性の形をしている・・・などと書くと、もっともらしいが、かく言う本人も実際に行くことになるまでは、正確な位置をよくわかっていなかった。普通研究者が出掛ける米国よりも芬(ふん)国フィンランドを選んだのは、ムーミンが好きだったからかもしれない・・・なんて書くと、マズイですよね。

 研究の話はどこかに書いたので、ここではフィンランドとフィンランド人について中心に書こう。北の純粋寡黙という言葉が良くあてはまるかもしれない。しかし、女性は強い。お世話になったラボでは特にそうだったのかもしれないが、一時期、大統領も首相もヘルシンキ市長も女性だったので、多分国家的にそうであろう。お世話になった教授は「植物エストロゲンの父」と言われる方であったが、その地盤を支えているのは、20数年来共に研究結果をたたき出してきた女性テクニシャン達である。論文を書くのがキライというだけで、ミーティングでは研究者と同等に意見を交わす。私もかなり鍛えられた。しかし、それはそれ、これはこれで厳しい面もあるが、いつもはニコニコしていて、からっとしている。帰国の際、秘書の女性に、よくぞこの強い女の集団で生き残ったと言われたが、殆どよくしてもらった記憶しかない。あと、男性と言えば・・・できればムコをみつけて、あわよくば青い目の子供もついでに・・・などという淡い期待は脆くも崩れ・・・どころか、教授以外のフィンランド男性と親しく話したことがあったであろうか?ラボには留学生が多かったので、そう、肝心のフィンランド男性については良くわからなかったりする。しかし、仲良し?のお年寄りの男性は、いた。私がお世話になっていた研究所は、何故か老人ホームと合体していた。従って、食堂ではお年寄りの方々と一緒である。いつもお昼に会うお年寄りがよく話しかけてくれた。そう、この方もれっきとしたフィンランド男性である。しかし、哀しいかな、そのお方はドイツ語は話せても英語は挨拶程度(フィンランドのお年寄りは英語よりもドイツ語が得意)。私はドイツ語など、遠い昔に試験を受けたような気もするが、話せるはずもない。深く知り合うのには言葉の壁があった。私がフィンランド語の達人であったなら、何とかなったかもしれないが、下記の理由で挫折した。フィンランド語は日本人の苦手なRを除けば、結構アルファベット通りに読むと日本人には発音しやすい。簡単な自己紹介などしようものなら、お~Very Clear~とばかりに、どしどし話しかけられる。最初は発音が楽なので、結構イケルかと思った・・・しかし、語尾が16格も変化するので、めげマシタ。英語を連想させる単語は一つもない。りんご(omena)とみかん(appersini)が逆ではないのかと思ったりもした。外来語の英語には語尾にiがつく。例えば、PostはPostiとか。専門的にはウラルフィン語族ウゴルゴ派という言語体系らしいので、ウラルアルタイの日本語に近いのかもしれない。時々でたらめな日本語に聞こえたりもする。とりあえず、フィンランドに行かれる方は、ありがとうの「キートス」と、こんにちはの「ヘイ」、じゃあねの「ヘイヘイ」は覚えておきましょう。

 米国留学中の室田さんが盗難にあった話を書かれていたが、私は逆にバスの中に置き忘れたバックが戻って来た話をしよう。その日、結構仕事に疲れており、荷物をいくつか持っていたのに、ぼーっとして乗ったバス(当時は3つのバスに乗り換えていた)の座席にバックを置いてきてしまった。その上、トロイことに家に帰ってからもしばらく気がつかなかったのである。そのバックには、お財布とカードとパスポートまで入っていた。随分経ってから気がついた時には真っ青になったが、夜中で時既に遅し。翌日バス会社に急いで問い合わせをすると、遺失物置場に行くようにすすめられた。そして、何一つ無くなることなく、そのまま戻って来た。こんなことは、そんなにないと言われたが、この国ではありうる。北欧は犯罪が少ない。これも北の純粋寡黙がなせるワザであろうと私は勝手に思っている。しかし、最近は、特に夏には中近東などから盗賊団が紛れ込んだりしているので、ホテル等での置き引きには気をつけた方が良いらしい。

 次はフィンランドの三大名物?について書こう。一つ目はサウナである。殆どのフィンランド人は湖の側にコテージを持っていて、そこには必ずサウナがある。日本のような完全なドライなものではなく、サウナストーンを熱くして、そこに水をかけるとかなり高い温度の蒸気が出る。100℃にもなるその部屋で、ずっと我慢をして、出たとたん湖に飛び込む・・・勢い良く飛び込むとまではいかないが、これは本当である。ヘルシンキで暮らし始めてから1年後の9月に教授のコテージに連れて行っていただいた。もちろんサウナ小屋つきである。教授の奥様に先導されては、もう入水しないわけにはいかない。大袈裟だが、これで日本女性の評価が決まると言っても過言ではない。まだ9月だったが、水温は15℃を切っていただろう・・・冷たそう。湖にはプールのように簡単なはしごがついていた。いくらサウナで熱くなったとはいえ、尻込み状態。しかし、教授の奥様は何のためらいもなく、するすると湖に入って行かれる・・・半ばヤケクソで、私もズボっと入ってみた・・・お~!全身に血流が駆け巡る感じ・・・多分、これがクセになるのであろうが、心臓の弱い方はやめておいた方が良いかもしれない。しかし、サウナストーンを使うフィンランド式のサウナはオススメなので、学会で訪れた際には是非お試し下さい。どこのホテルにもサウナはあると思います。  

 2つ目はオーロラである。フィンランド語では、狐火(だったと思う)という意味の「レヴォントウリ」という。実は、私は1年半もいたのに、オーロラを見たことがない。観光でちょっと行った人が見られたりするのに、何と言うことでしょう!ヘルシンキでは殆ど見られないというのが理由であったりもするが、一応、北極圏まで行ったのに結局見られずじまいだった。見られるまでフィンランドに通えよといわれているような気がする。フィンランドの冬は、やはり寒い。最初の年、12月まではあまり寒くなかったので、あら、こんなもの?と、タカをくくっていた。ところが12月の中旬、いきなり−20℃になり、それはそれは寒くなった。息をすると鼻の中が凍る感じがした。私のコートにはフードがついていたので、それで良いかと思っていたが、何故か頭痛が止まらなくなった。後でわかったことは、帽子が必要だったということである。毛糸の帽子を購入し、頭と首をガードしたところ、すぐに治った。そして、さらに微熱が続く。結核かも・・・と言われた。しかし、これも寒さのせいであった。どうやら寒いので自家発電?をしていたようである。2度目の冬は、身体が慣れて何ともなかった。ヘルシンキが−26℃になった時、北極圏のラップランドでは、想像を絶する−52℃だったそうだ。そして、寒すぎて電気も故障したというニュースが入った。ヘルシンキ大のラボのスタッフの知り合いが、ラップランドにいるので、心配して連絡したところ、暖炉とサウナがあるから大丈夫。ついでにそこでパンもたくさん焼いたよ・・・という返事が帰って来たらしい。東京ではこうはいかない。フィンランド人は都会に住んでいても「森の人」だ。教授のコテージに行った時、教授はせっせと薪割りをしていた。こうして私は論文を書いている・・・とか何とか言いながら。

 3つ目はサンタクロース。北極圏のラインの真上に住んでいる・・・というか、そこにサンタクロース村がある。ここに引越しをする時には、新聞紙上に「トナカイの食べる苔がなくなったので、引っ越します。」と、真面目に掲載されたそうだ。友人が冬にフィンランドに来ると、サンタクロースに会いたがるので、滞在中に2回ほどサンタクロース村に行った。サンタクロースは一人のはずだが、2回目に会ったお方は日本語も話せた。世界中の子供達が会いに来るので、たくさんの国の言葉を操れるのだそうだ。  

 その他、フィンランドではIT関連産業の発展が目覚しい。携帯電話の普及率は日本よりも高い。よって、公衆電話は日本よりも少なく、大変使いにくい。

 国際ポリフェノール会議の話に戻そう。数年前からEU諸国でのプロジェクトでは、機能性食品をターゲットにしているものが多い。日本が発祥地であるにもかかわらず、もう自分達のものにしてしまう勢いである。フィンランドの機能性食品は、他のヨーロッパ同様、乳製品が多い。ヨーグルト類はかなりの種類があり、ベネコールという植物ステロール・スタノールを使ったマーガリンが有名である。また古くから食されているライ麦パンの成分であるリグナンも植物エストロゲンの一つとして注目されている。今回の学会のPresidentは、たいへんお美しいヘルシンキ大学の女性Professorである。植物エストロゲンの合成などはおてのものの化学者で、クリスチーナという聞き慣れたお名前であるが、スペルで書くと少々違ってくる。「Kristiina」というのが正しい。フィンランド語にはLが殆ど使われず、伸ばす単語はiiとかaaとか字を重ねるパターンが多い。ハッキネン(F1)、ライカネン(F1)といった、なんとかnenという名前も多い。丁度私が滞在していた頃、長野オリンピックで盛り上がっていたが、アホネンさんというジャンプで有名な方の名前をみんなで連呼していた。笑えたのは私だけだったが、笑った理由をフィンランド人には説明できなかった。木造住宅という意味の「Puutaro」についても同様である。

 そんなこんなで南の五穀豊穣より、北の純粋寡黙を好むようになった私ですので、今年8月にヘルシンキに行かれる方からの、現地情報等についてのお問い合わせを歓迎致します。

 

8.山田哲雄  (関東学院大学)『三寒四温』2004年03月24日

 「桜の開花は今年も早そう!」というニュースが流れましたが、そのあと寒さが復活し、きょう(3月22日:コラム原稿の提出が遅れてすみません)は冷たい雨が降り続いています。三寒四温の状態になると体調を崩すことも多いようで、大相撲の“荒れる春場所”も3月の不安定な気候に由来するという説を聞いたことがあります。もっとも今場所は、朝青龍以外の上位陣も珍しく好調のようですが、偶々の現象なのでしょうか?  さて、健康状態や栄養状態そして生理機能については、しばしば臨床検査値がその指標として用いられています。そして、以前は正常値と表現されていた基準値は、臨床検査法提要によると次のように記されています:

 「健常人が取りうる臨床検査値であり、検査成績を臨床的に解釈するときの基本的尺度として用いられる。・・・異質要因を含まない均一な健常人集団の測定値は、成分によりほぼ一定した分布を示す。この分布の中央の95%を含む範囲を一般に基準範囲といい、基準範囲の両端の値を基準下限値、基準上限値という。」

 血液をはじめ臨床検査の対象となる試料は、多くの場合に早朝空腹・安静時に温熱的中立状態で採取されています。このような条件下での測定成績は、基礎代謝の例でも明らかなように、生体の基礎的な状態を示すことからもちろん重要視されるべきものだと考えられます。その一方で、このような静的状態は、1日のうちの少ない時間でしかないということもできます。

 他方、生理的変動要因としては、遺伝的要因、時間的要因、生活環境要因などが挙げられます。私たちの生活で睡眠時間は平均6~8時間/日程度ですので、生きている時間の70%程度は、種々の生活環境条件の影響を受ける言わば動的状態に置かれていることになります。そして、同じ質と量の負荷であっても、その影響は個人によって大きく異なることも珍しくないだけに、基礎的な状態に加えて動的状態での生体の状況を考えることの意義は大きいと考えています。

 私は、生理機能と栄養状態に及ぼす環境因子のうちの主として運動の影響を勉強しております。望ましい食生活と適度な運動は、生理機能と栄養状態を良好に保つための基本であるとよく言われます。私もそのとおりだと考えますが、その上での応用編を考えることもまた重要であると思っております。FSFの先生方から、何らかのご教示をいただければ幸いです。

 

9.勝崎裕隆  (三重大学)『子供の「うみ」、大人の海』2004年04月12日

 私の博士論文の最後のページにつぎの言葉が書いてあります。 (公的提出したものには書いてありません)

 子供の心でいたいよね、だって大きな夢を見たいから

 この子供の心には、自分自身いろいろな意味があるのですが、これを書いて10年ほどたった今、この場を借りて、最近の経験を例にしながら、この意味の一部について少し書こうと思いました。あくまでも、個人的な考えで、自分自身が心がけていることの一部です。また、永遠の子供を目指す私ですので、稚拙な文章になることはお許しください。

 経験とは、私の子供が保育園で描いた絵を見たときのことです。その絵とは、画用紙を、青のクレヨンで塗り尽くしたものです。画用紙の隅っこに「うみ」と書いてありました。おそらく、子供が先生に、この絵は何と聞かれ、「うみ」と答えたのでしょう。それで、先生が隅に「うみ」と書いてくれたのでしょう。私自身、この絵を、海とは予想していたものの、この文字が無ければ確定はできませんでした。その一方で、子供は、こんな「うみ」の絵を描けるのだ、と思いました。この絵は、驚きと同時に、ある意味、海を上手く表現できているとも考えました。皆さんは、現在、こんな絵を抵抗無く描けますか。きっと、描けないでしょう。では、子供はどうしてこんな絵を描いたのでしょう。それを深く考えてみると、私の子供の心という意味が見えて来ます。また、それだけでなく、現在、この文を読んでいる人にも、自分なりの考え方も出てくるのではないでしょうか。

 子供がどうしてこの絵を描くかという解釈には、いろいろなことが世間でいわれています。知識が無いからこのように海を描くだとか、海を描くこうとして書いていて、青で塗っている間に、紙が無くなってしまっただとされています。私の解釈は、子供に知識が無いことも確かかもしれませんが、本当は素直に「うみ」を見て、そう感じたから描いたのだと言いたいのです。なぜなら、この絵は、私の子供が4才か5才くらいの時に描いた絵で、おそらく海へ行ったときのイメージを画用紙に表現したものです。当時の「うみ」の印象は、多分、青一色だったのでしょう。子供の目でどこまで見ても青一色にしか見えなかった、と思うのです。私が「船があるね」と子供に言っても、子供の目に入らず、まして、水平線なんかより、紙面全部が青一色の方が大事だったのでしょう。それが、単純でありながら、それでいて本質をつき、結果として、画用紙いっぱいを塗り尽くし、この絵となったと思うのです。私はそう考えます。では、紙が無くなったという後者の意見はどうでしょう。そんなことはありません。この絵を描いているとき、青を塗っている間に紙が無くなってしまうことはありません。なぜなら、この絵の前後は、きちんと紙の中に収まった絵が描いてありました。従って、子供の頭のなかには、すでに、配置を理解して描く能力はできていました。ゆえに、紙がなくなるという後者の意見もあり得ないと思います。私の結論として、その頃の子供にとって素直な気持ちが、青一色の「うみ」なんです。それが子供にとっての海の本質として描けたのです。

 しかし、今はもう、私の子供もこんな絵を描きません。絵の中には、水平線があり、船が浮かび、さらに灯台もある海を描きます。普通の大人も、そんな絵しか描けません。では、どうしてこんな絵を描くようになるのでしょう。おそらく、私の子供も、普通の大人も、頭の中に、知識がどんどん入ってきて、「うみ」のイメージが、青一色だということから変わってしまうからでしょう。すなわち、素直な目で見ていたものよりも、他のイメージを利用して表現するようになってしまうのです。そして、本来見ていたものが薄れていってしまうのでしょう。  私は、これではいけないと自分に言い聞かせています。なぜなら、私は、素直に、物事を見ることが大事だと思っています。そのためにも、素直に、物事を見ていたときの子供の心を自分のなかに持ち続けたいと思います。そうすれば、自分自身が、いつまでも本質を見続けることができるのではないかと思います。これが、子供の心でいたいよねという言葉の中の意味の一つです。  

 お節介かもしれませんが、子供の「うみ」、あなたの心の中にも持ち続けてみてはどうですか。そして、皆さん、大きな夢、見てみませんか。

 

10.井奥加奈 (大阪教育大学)『夜ご飯』2004年05月14日

 一日の終わりに私達が食べる食事は一般に「夕ご飯」「夕食」「晩御飯」などと呼ぶ。実際には6時ごろから8時ごろまでの間に食べる食事、という意味を込めてそのように呼んだのであろうと考えられる。更に夜が更けて、少し小腹を満たすような軽い食事は「夜食」と言うが、これらに加えて最近登場してきたのが「夜ご飯」である。

 「夕方」「夕刻」から始まって「宵」(日が暮れて間もない頃)、「晩」(日没後、ヒトがまだ寝ないような夜の初めの方)、「夜中」(宵と暁の間)、「夜更け」「深夜」(夜が更ける頃)「暁」(夜中に続く夜が明けようとする頃)、「明け」「夜明け」(空が白み始める頃)というように、「夜」は時間帯によって用いる言葉が違う。明確な時間帯は決まっていないが、それらの言葉はおよそ指し示す時間帯が決まっている。そして、それらを包括して日没から明け方までを指すのが「夜」という表現である。したがって、夕方以降いつ食べても「夜ご飯」という言葉は成立することから、ある意味では非常に使いやすい言葉でもあると言える。また、若者世代を中心とする日本人の生活パターンが少しずつ夜にシフトしてきたことによって、晩御飯の食事時間も一定ではなくなっている。その結果、どの時間帯でも使える言葉として「夜ご飯」が生み出されたのかもしれない。午後7時でも午後10時でも「夜ご飯」を食べると言えばそれで済む。「夜食」は「夜ご飯」がそれなりに整えられた(という意識のある)食事であるのに対して、簡単かつ少量の食物といった要素が強く、夜ご飯(晩御飯)の後、更に食べるものというふうにも認識されているように思われる。  

 学生によれば、「朝」「昼」に呼応する表現は「夜」であるから「夜ご飯」である、ということであり、単に夜に関する語彙がそれほどないがための造語であるとも推測できる。また、奇しくも大阪出身の学生に「夜ご飯」が多く、他府県出身の学生はいろいろな表現をしていたことや若者に広がっている表現であることから、漫才など、何かメディアの影響があるのかもしれない。米川明彦教授(梅花女子大)は読売新聞のコラム(2004年1月26日付、大阪版)の中で「夜ご飯」とその同義語の語源について取り上げ、「今までなかった語彙の穴を埋めた」と表現しておられる。コラムによれば「夜飯(よるめし)」という表現もあるそうで、夜ご飯も夜飯も「俗語」として位置づけられていた。

 食生活の変遷は時代の流れと敏感に連動して新しい言葉を生み出している。俗語の中にも一般用語として定着し、何かの講義の中で使われるまでに昇格してくるものがあるだろうか。